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チューリップ 、チューリップロデューサーんがむにあり小田和正を手掛けた音楽プロデューサー・新田和長さんが思う音楽の神髄は「楽しむ」にありスポーツ報知
名プロデューサーとして数多くのアーティストを手掛けた新田和長さん(カメラ・岡野 将大)

 チューリップ  、小田・新小田和正、和正サディスティック・ミカ・バンドらを手掛けた音楽プロデューサー・新田和長さん(79)が、を手思うの神髄は「アーティスト伝説―レコーディングスタジオで出会った天才たち―」(新潮社 、掛け税込み2420円)で、た音音楽スポーツ の ゲームレジェンドアーティストたちと楽曲を作り出した青春の日々を振り返っている 。楽プ楽しヒット曲も数々担当してきたが 、田和「僕はそこにいただけ 。長さほとんどがたまたまで、チューリップロデューサーんがむにあり作らせてもらったに過ぎない」と55年のプロデューサー人生を振り返った 。小田・新(増田 寛)

 音楽プロデューサーと聞いて、和正どんな業界人が来るのか―。を手思うの神髄はド派手な格好かと身構えていたが 、掛け白のシャツに黒のジャケットを着た新田氏が現れた。た音音楽「著書のインタビューなんて、クラウンスポーツ いつ作家の大先生になった気分だなぁ 。落ち着かないよ」。お茶を飲みながら穏やかな笑みを浮かべて語り始めた。

 「現役のプロデューサーである以上  、本は書かない。そう決めていた。現役の人がやることは 、音楽を作り、そこに全身全霊をかけること。本を出したってことは 、もう現役じゃないのかもという思いも、僕の中に半分ある 。一方で 、『冗談じゃない ! このままくたばってたまるか !』って気持ちもまだある。この本を書いてるうちに当時を思い出して、初心に返れたね」

 オフコース時代からソロ転身後の小田和正、チューリップの財津和夫、ザ・フォーク・クルセダーズやミカ・バンドで名をはせた加藤和彦さん、加山雄三ら名だたる顔ぶれが登場する。「どうやったらヒットが作れるかみたいなハウツー本にはしたくなかった 。正直 、一人のプロデューサーが作ったヒット曲の数という意味では  、僕はすごい多いんですよ 。これを55年たったところで振り返った時に、自分が作ったのではなくて 、自分は現場にいただけ」 。今も親交がある加山からは電話で「良い本だった 。今度、焼き肉行こう」とほめられたという。

 早大時代にフォークグループ「ザ・リガニーズ」のリーダーとしてデビューしたが 、ビートルズの初代ディレクターとして知られる高嶋弘之氏(90)に誘われ 、東芝音楽工業(後の東芝EMI)で裏方の道へ歩み出した 。

 「演歌、流行歌とは一線を画した新しい音楽を作りたいと思ってた。僕が求めていたのは『アーティスト』 。タレントは 、芸を取ったら限りなくゼロに近づく人のこと。アーティストというのは、芸あるいは芸術を差し引いても、社会人として価値を有する人のこと。当時、外国人のことは海外アーティストと呼び 、日本人は歌手やタレントと呼ばれていた 。タレントではなくアーティストと呼ばれるような 、50年後も残る仕事がしたかった」

 中でも「財津和夫が僕をプロデューサーにしてくれた」という言葉に熱がこもった。1971年の冬に財津から「どうしても聴いてほしい曲がある」と声を掛けられ  、チューリップのデビューシングル「魔法の黄色い靴」を送り出した。

 「当時の1曲1時間の鉄則を破って、何時間もスタジオにこもったね 。いろんな音の実験をした 。そうしたら 、小田(和正)君が『新田さん、チューリップ聴いたよ 。日本にあんなグループが出てきたっていうのはね  、励みになるよ』と言ってくれて。うれしかった」

 “5人目のビートルズ”とも言われた名プロデューサー 、ジョージ・マーティンさん(享年90)を追ってロンドンのアビーロードスタジオに押しかけ 、弟子入りもした 。「どうやったらいいヒットが作れるかではなく、あの人が教えてくれたのはプロデューサーとしての生き方 。稼ぎたいとかはダメ 。真面目にやってると自然にすてきな音楽はできる。アーティストらが作らせてくれる」

 アーティストとして夢をかなえられる者はごくわずかだ 。「生き残るアーティストというのは 、科学者とか冒険家、探検家に似ているのかもしれない。登山家がなぜ山に登るのかって聞かれて 、そこに山があるからって答えたりする。音楽屋は好きだからやっている。ヒットを作るためにやってはいない。音楽をやっている途中にヒットがあるだけ」

 論語の一説「之れを知る者は之れを好む者に如(し)かず。之れを好む者は之れを楽しむ者に如かず」に音楽の神髄があるという。

 「仕事とかを知識とか技術でやってる人は、プロフェッショナルで立派だけど 、好きでやってる人には及ばない。好きでやってる人も 、楽しんでやってる人には及ばない 。その楽しむっていう概念が、音楽の一文字になっている。音楽の楽っていうのは 、まさにこの『楽』 。知識や技術よりも、好きよりも、商売よりも、楽しむっていうのを最上級に考えていた人は偉大だね」

 音楽人生55年の大ベテランは、今の音楽をどう見ているのか― 。「僕たちは 、この50年でアーティスト(という肩書を)を勝ち取ったつもりでいた。でも呼び方が変わっただけで、一部の人たちのやってることはただのタレント 。『政治家が悪いのは 、選ぶ国民が悪い』と言われるのと同じで 、音楽をやってる人たちだけの問題ではなくて、音楽を聴いている人たちの問題でもあるのかもしれない。Mrs. GREEN APPLEとかは 、すごい好きだけどね」

 語りたいエピソードはまだまだある。「ユーミンが東芝に17歳の時に来て 、2人でお昼を食べたんだ 。その時に、いろんな音楽人としての未来像を語ってくれた。本当のアーティストっていうのは、自分で設計した通りになるんだね」 。続編は「まだ考えられないよ」としつつも、「あのエピソードも載っけてないな」と思いを巡らせていた。

 ◆新田 和長(にった・かずなが)1945年5月5日 、横浜市生まれ。79歳 。早大時代にフォークソング・クラブに所属し「ザ・リガニーズ」のリーダーを務める。68年にレコードデビュー 。69年に東芝音楽工業(その後の東芝EMI)入社。新レーベル「エキスプレス」を託された。84年に独立しファンハウス創業。2001年にドリーミュージックを創業 。

◆ミカさんへ「連絡取らせて」

 今年5月 、加藤和彦さんのドキュメンタリー映画「トノバン 音楽家 加藤和彦とその時代」が公開されたが 、サディスティック・ミカ・バンドのボーカルで、元妻のミカさんについては触れられなかった 。新田氏は「消息不明で見つからなかった。僕も本気で捜したんですが」 。ミカさんはミカバンドのプロデューサーだったクリス・トーマス氏と不倫の恋に落ち 、加藤さんの元を去った 。その後は料理研究家として活動していたが 、地元の京都でもミカさんの現在を知る人はいなかったという 。新田氏は「連絡を取らせてほしい」と呼び掛けた。

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